『伊㔟、神宮の大切さを語るとき、こんな話をしないでどうするのよ。』
日頃よりお世話になっているお方から、そんなお言葉をよく耳にいたします。
そのようなお話にございます。
明治25年、艮の金神として國常立尊、天御中主神様が神懸かりされた大夲開祖、出口なお様。
その出口姓は、それまでも日本の歴史のとても重要な場面に顔を出していました。
それは江戸時代初期、伊㔟。
出口延佳(でくちのぶよし)様は度会延佳とも名乗られ、伊㔟外宮代々の大神主を務めてきた神主家、度会(わたらい)氏の子孫でございました。
このお方は、歴史の教科書などでは「度会神道」中興の祖としてご紹介されます。
大切なのは、その度会神道の二本の柱でございます。
一本目は、
「外宮のご祭神は内宮の食事の神様ではない。最高神國常立尊、天御中主神である。」
そして二本目は、
「人は誰もが心にその天御中主神を宿す、いわば神社である。」
ということでございます。
度会神道のこの主張はどちらも極めて重要で、これから真に見出される必要があると私個人としては強う感じております。
がしかし、一般的には「度会氏が度会神道を主張したのは、内宮荒木田氏への『対抗心』が動機であった」と言われております。
ところがです。同じ出口姓のなお様に國常立尊、天御中主神様が懸かられたとすると、どうやら度会神道の動きは、もっと神懸かったものだったというのが真相なのではないでしょうか?
つまり「同じ家系」であるこの出口(度会)延佳様にも同じように、國常立尊、天御中主神様の神懸かりに近い関与が大いにあったのではないかと思える来るのでございます。
そしてこれ以前にも、鎌倉から南北朝時代にかけて、外宮度会家の神主の方々が同様の主張をして来られました。
『外宮のご祭神は國常立尊、天御中主神であり、それを心に宿した存在が、人である』
ということでございます。
これを主張しておられたのが度会(わたらい)氏。
南朝と北朝という二つの皇室が争った時代、神主ながら武装し南朝を熱狂的に支援した度会家行様などにも、外宮の神様のお力を感じます。
なぜかあまり語られないのでございますが、実は神宮はかつて「度会宮(わたらいのみや、わたらいぐう)」と呼ばれておりました。
度会氏は、雄略天皇の詔により雄略天皇二十二年に外宮としての本殿が建てられた後も大神主を務められ、最も神聖な「心御柱」に近づきご奉仕する、神宮で最も大切なお役目「大物忌」もそのご息女が務めておいででした。
それが長い歴史を通じて少しずつ神宮から排され、度会家の名が神宮、そして伊㔟の地からも消えてしまったのが、明治のことにございました。神宮は世襲制でなくなりました。
そして、それと時を同じくするかのように、出口なお様へ國常立尊様が懸かられたのでございます。
まるで神様が、懸かる依り代となるべき存在を探し求められていたかのように…
外という千木の向き、九本という鰹木の数。
いずれも豐受様という姫神様を祀るには合わないなどと言う声もございます。
雄略天皇がご祭神を隠すかのように外宮本殿をお建てになられたのも、明治の御世の神宮とくに外宮への関与は、神様はそのときそのとき必要な布石を敷かれたように思われるのでございます。
そのときそのとき、やはり当事者の中には悲しい物語があるのも事実でございます。
しかし歴史の長い期間を掛けて陰の方向に振れてきたのものは、必ず陽に振れるというのが道理。
そして外宮の地にも、そろそろ戻るべき存在があるように思うのでございます。
そして現代のまさに今、その兆しを感じております。
…と、また勝手な妄想が過ぎました。
そのような「しかるべきものが、しかるべきところへ戻る兆し」についての妄想が個人的には実は一番面白く思うのですが、それにつきましては、また別の機会に独り言ちたいと存じます。