熊野、玉置行きの12月12日当日。
熊野、玉置に向かう前に、外宮に寄りました。
御垣内参拝をしてから、剣祓いの御神札をいただいて玉置神社にお持ちしようと思ったのでした。
それが何の意味があるかは良く分かりませんでしたが、なんとなく、外宮と玉置との靈線をくくり直すために呼ばれたように思ったからです。
そうして御垣内参拝をしようとすると、財布にいつも入れてある特別参宮証がありません。
不思議なことに、もう何十回と御垣内参拝をしていて、そんなことは初めてでした。改めて遷宮の寄付を申し出たときに、なんとなく御神札も御垣内に一緒に入ったほうがいいのかも知れない、と思いました。
そして寄付に合わせて御神札もお頒けいただいて着物の袖に忍ばせて、御垣内に入ったのでした。
玉置は國家規模での悪魔祓いの宮。そのために、外宮の心御柱に十分に近づけた剣祓い神札が必要だったのかも知れません。
あくまでただの妄想ですが…^ ^
熊野から玉置神社を案内してくれたのは、坂上田村麻呂の末裔の男性でした。
坂上田村麻呂は、平安時代、東北の蝦夷(えみし)を征伐した初代征夷大将軍。
また、玉置神社の御祭神である國常立太神を祀る神社を、京から東北にかけての道中に、全國に幾つも建てていった人でもあります。
男だけに許された「弓神樂」という悪魔祓いの神樂を舞う玉置神社。
その末裔の彼はその男神子(みこ)に、ほんのしばらく前に選ばれたばかりでした。
近年止むを得ずその役を女性が務めたことがあったそうなのですが、その年のうちに亡くなったのだそうです…
熊野から玉置に向かう道中、彼は最近見るという、このような夢の話をしてくれました。
『目の前にえも言われぬほど美しい鬼がいて、その鬼の胸を僕が弓矢で射抜くんです。
するとその射抜いた矢が刺さった感触がリアルにあるんです。自分の胸に…』
細かいところなどは記憶違いがあるかも知れません。
でも、坂上田村麻呂が東北に向かって行なったのは『鬼退治』だったと言われています。
そこでなぜか田村麻呂は、國常立太神を祀っています。
その國常立太神はまたの名を、『艮(「ウシトラ」=牛虎)の金神』と呼ばれますが、昔話に残る鬼は「ウシ」の角に「トラ」柄の腰巻きという姿しています。
つまり『鬼』を祀っていたのです。
実際に彼が行なったのは、東北の王、悪路王と呼ばれたともいわれる阿弖流爲(アテルイ)退治でした。
ところが彼はアテルイに惚れ込み、彼らを助けるよう平安京に連れて来ますが、アテルイ達は殺され、田村麻呂の創建した寺社は数多く残りました。
坂上田村麻呂の射抜いた鬼は、自分自身であった…?
退治した側は、実は退治された側?
これは、一年後の東北陸奥の旅へ、とても大きな布石になるエピソードとなるのでした。
その末裔が、國常立太神の拠点とも言える玉置神社に、現代のこの時に弓神樂を行う男神子となること。
神の深遠なる適材適所には驚くばかりで、それを絶妙のタイミングで見せていただいたのでした。
そしてまた、退治すべき悪魔が日本に迫っていて、この文明はもはや首の皮一枚、といった状況を改めてひしひしと感じたのでした。